昭和44年8月11日 朝の御理解●★
御理解第2節「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない」
みてるということがない。神の栄光を燦々として降り注ぐ、そういうお恵みの中に、生き続けれるということ。それは、子孫にも残るということ。そういうおかげを頂きたいと念願さしてもろうて、信心をさしてもらわなければならん。
自分の身の上にも、自分の家にも、そうした神の恵みが充満したと言うか。それをはっきり感じられる信心。しかもそれが、「子孫にも続いて行く」という確信の持てれるもの。ね。
私は、「みてるということがない」とこう仰る。神徳は、信心をすればだれでもが受けることができる。みてるということがない。ね。そういう神徳、しかもそれは、誰でも受けることができるということは、「その気になれば誰でもが受けることができる」というのであると思う。先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでもが受けることができる。
お道の信心に御縁を頂いて、親から子の代というふうに、信心の続いておるということだけではない。ね。神徳は、信心すれば誰でも受けられることのできるということは、ね。本気でその、神徳を受けたいと腹を決めるというか、ね。その気になるというか。その気になって信心すれば誰でも受けられるのである。
けれども、誰でも、誰でも受けられるということは、楽なふうに聞こえますけれども、まずその、まあ、楽に受けられるかもしれません。けれども、まずそれにはです、そういう、こちらが心にならなければいけません。神徳を受ける。ね。そこに、私は、みてるということのない、ね、神の栄光を十分に、身にも家にも受け続けて行くことのできれるおかげ。
皆が、そこんところをですね、まあ、そんな言葉で言うては打倒ではないかもしれんけれども、その一番大事なところを皆がいい加減な受け方、頂き方をしておるように思う。ね。「誰でも受けられる」と。それは、その気になれば誰でも受けられるのである。
まず、その気にならずしておいて、おかげの受ける、「信心すれば誰でもお徳が受けられる」ということではないのです。それはもう事実が証明しておりますよね。たくさんの信奉者がありますが、ね。その中に幾人、ほんとうの意味での御神徳、言わば、神の栄光が、その家に満ち溢れておるような、いわゆる、誰が見ても「なるほど、金光様の信心をしござるから違う」と、人間でも、身代の上においても、もう全ての点においてです、違うというおかげ。ね。
信心を、これはしてもせんでも同じですけれども、努力をして立派な家が建ったり、儲け出したり、ね。そういうのは、もうたくさんありますけれどね。神徳がそこに満ち溢れておるような家というのは、ざらにない。ただ、信心しておかげが受けておっても、ね。御神徳がある。いわゆる、神の栄光が家の隅々まで、輝き渡っておるというようなおかげ。言うなら、誰が見ても「なるほど」と合点のいくようなおかげ。
一生懸命に信心をさして頂いて、ね。まあ、言うならば、一生懸命にお参りをするということになりましょうか。一生懸命にお参りをする。そして、一生懸命努力をする。そして、まあ、財産ができる。これは、信心がなかってもいいですよね。一生懸命に努力をする。いろんな研究をする。ね。いろんな勉強をする。そして、字詰めをやっていって、言わば、一代で巨万の富を積み上げた、というような例はたくさんありますが、そういうおかげを頂く。ね。言わば、じっとしておっても貯められるというようなおかげを頂く。ね。
とにかく、じっとしておっても食べられる、というような私は、おかげを頂くことを考えたら、たいへんだと思う。ね。ただ、ちょいといいですよね、じっとしておって食べられるのですから。齷齪(あくせく)としなくていいのですから。ね。けれども、果たしてそういうような信心がです、ね。言うならおかげがです、ね。どういうことになるだろうかと。
まあ、たとえて申しますと。動物園に飼われておる動物たちのように、ね、寝ておっても、あくびをしておっても、ね。ちゃんと人間の好く食べ物を与えられる。それこそ檻の中でじいっと寝ておる動物。動物園に行ってみて、それを見る時です、ね。果たして、この動物たちは幸せだろうか。じっとして食べておるということが。ね。
それは、身を危険を、身に危険を感じながら、または、さらしながらね、言うなら、原野荒野を駆け巡っておる時、かえって、その動物たちは幸せではなかろうかと思う。それは分からん。動物になってみなきゃ。ね。獅子やら、それこそあれは、キリンやら。ね。
その珍しい、例えば、動物たちが動物園でまかないを受けておる。実にこげな結構なことはない。けども果たして、結構であろうかそれで。ね。私はその、じぃっとして食べられるようなおかげを頂く為に信心をしたり、また、信心はなかっても、ただその事が夢である、といったようなことであってはです、それこそもてあましてしまう。もしそれが子供に孫に伝わっても、どういう結果になるだろうか。思ただけでもですね、はあ、そういう考え方は、ほんとに間違いだと、まず、私は知らにゃいかんと思うのです。ね。
ここに金さえあればとか、物さえあればとか。ね。そうではない。信心はそうじゃない。もう極言するなら、信心は神徳を受けることの為に信心があるのだ。ね。神の栄光を燦々として、受けられる。それをまた実感する。ね。そら、巨万の富を積んではならん、というのじゃぁない。そのおかげがです、どっからどう考えても、神様のおかげによるものである、お恵みによるものである、というようなものがです、満ち溢れておらなければいけないということ。ね。
そこに新しい喜びがあり、ね。そこに生き生きとした、生きがいというものがある。そういうおかげを願わしてもらう為には、まず、ね、みてることがない。ね。みてることのないおかげ。つきることのないおかげ。言うなら、火にも焼けなければ、水にも流れないというおかげ。
そういうおかげをですね、願うということは、そういうおかげの頂けれる信心に、本気でならせて頂こうという、私は、ね、願いと同時にです、その気にならなければいけない。それは、願うただけ、参っただけのおかげではなく。「神徳を受ける」ということなんです。ね。いわゆる、「神の御信用を頂く」ということなんです。
今のような心がけで神の信用が受けられるであろうかと。今のような状態で、神様は喜んで下さるだろうか。今のような熱心さで、神様が認めて下さるだろうか。そこにです、限りない、私は、力と言うか、湧き出てくるような元気な心と言うか。ね。
いわゆる昨日の御理解じゃないけれども、「これはまぁだ信心が足りぬからじゃ」という、その信心をです、ね。私は、そこに焦点を合わして行かなければいけない。なるほど、こういう生き方で行って、おかげは受けられるかもしれんけれども、こういう生き方で神徳が受けられる。「みてることがない」と仰る、無限に続くところのおかげ。それは、あの世にも続くものである。ね。子にも孫にも伝わるものである。というようなです、おかげを頂くということに、「神徳は、信心すればだれでも受けられる」とまあここには教えてありますけれども、ね。皆が神徳を受けられる信心をですね、その頂こうという、その気にならなければ、何十年信心しても同じことだということ。ね。
それにはやはり気概が要る。んふぇ。「千万人の中にでも、我ゆかん」という気概が要る。ね。確信を持った、信念を持っての言わば歩き方。
先日、どこでしたかね、鶴見という教会があります。たいへん、まあ有名な教会です。そこの先生が、ここに、あれはまあ、巡拝をされてみえました。九州、御本部から、ここへ飛行機で礼拝。ここと甘木を見るのが、見るのが、お参りして回るのが、まあ目的だったらしい。
途中汽車の中で、高宮の先生とお会いになって、いろいろ聞かれ、ほいでまあ、高宮にも寄られて、結局、九州に来て三軒の教会に寄られたわけなんです。ね。ほいでその事の、ここへ見えられた時に写された写真入りで、まあここのことを紹介しておられるんです。
「八波」という立派な雑誌が、毎月でておりますね、教会から。そのざっしに紹介してある。
どういうふうに書いてあるかというと。まあ、こういう田んぼの中にある、言わば田園教会と。ね。確かに田園教会。ところが、中に一歩入ってみてです、それこそ、「神徳溢れるばかりのお広前だ」というふうに言うておられます。もちろんそれは、私は、そのまま受け取ることはできません。ね。それは、やはり褒め言葉というのがありますから。ね。
まあ褒め言葉でもございましょうけれども、ですから、私は、そういうお広前にしたいと言うとおかしいですけれども、そういうお広前でありたいと願います。ね。
ここのお広前の、どこの隅から隅を見ましてもです、それこそ、神の栄光を燦々と受けきっておるお広前。「はあ、これは人間が建てたんじゃぁない。神様が建てられたお広前だ」と。とても人間の業でできることじゃぁない、神様のおかげでなかなきゃ建つことのできないものを感じられるほどしのお広前でありたい。言うならば、神徳溢れるばかりのお広前におかげを頂きたい。
為には、中心である私、同時に、皆さんがですね、そういう、やはり姿勢にならなければいけないということ。また、ならなければならないということ。
私、今朝方からもう、ほんとにその、有り難いお夢を頂いた。ね。●もうそれこそ、これが合楽の、これからの合楽だと。それはもう、言葉には言えぬほどに素晴らしい、お広前の生き生きとした、いわゆる活況です、の生きた状況ですかね。そういうおかげを神様が下さろうとしておる。現在受けとるわけじゃないですから、下さろうとしておることになる。
そういう例えば、おかげが間近だ、というようなおかげを、おかげにですね、言わば、味噌付けるようなこと、言うなら、それがシダゴダになってしまうということ。神様の願いがそのようにあっておるのを、私どもの信心如何で、ね。味噌を付けてしまうような、ね。シダゴダにしてしまうようなことであっては、相済まない。ね。
「生神金光大神の御威徳」と言うものをです、ほんとに、燦々と降り注ぐようにです、ね。私の身の上にも、私の中心とするこのお広前の上にも頂いて始めて、生神金光大神のお徳を現すことができるのである。だから、結局は、受けることは私の事ならば、現すことは神様の事なんだ。だから、神様がそこんところを願いなさらんはずがないのである。ね。それには、「しっかりしてくれよ」ということになるのでございます。ね。
それには、どういうような信心をさして頂いたら良いか。その事を神様に、今朝の御祈念にお願いさして頂いておりましたら、★「ヒマワリの花」を頂いた。ところがヒマワリの花が、どうしたことでしょうか、虫が付いたと言うか、水気がなくなったって言うんでしょうか。首をグシャッとこう曲げておるヒマワリであった。
ああ、これが今の合楽の信心だなぁと。ですから、このヒマワリがシャンとして、しかも、ね。太陽の光の方へ向かって、言うなら、暑い方へ向かってこのヒマワリが顔を向けるような信心を神様は求めておいでられるのだなぁ、ということを私は感じた。ね。
それは何の稽古においても同じ事ですけれども、やはり、それこそ、ヒマワリでもやはり首を前にグシャッと曲げるような時があるのですから、ね。けれども、そこんところが私は、泣く泣くでも、辛抱しいしいにということではなかろうか、と思うです。ね。そして、「元気な心を与えて下さい」「ここに立ち向かわせて頂くことの為に、生き生きとした信心をさして下さい」と願いながらもやはり、頭を垂れておるほどしにです、ね。いわゆる、「泣く泣く辛抱しいしい」というところ。
ここの「辛抱しいしいに」というところがです、シダゴダにされたんでは、もう絶対、いつまでたっても、どういう良い信心をしておっても、御神徳に触れる事ができません。
そこんところを例えば、泣く泣くでも辛抱し抜いた人です。そして、ようも、こう辛抱し抜かせて頂いたもんだ、と後で分からして頂くほどしの辛抱がです、できる人です。ね。それには、今日私が言うです、「神徳は、信心をすればだれでも受けられる」ということは、ね。今こそ、力を受けておる時だ。御神徳を頂いておる時だと。その御神徳が願いでなからなければへこたれますよ。ね。
それこそ人から笑われても、神様から笑われちゃぁならんという違いがここに必要になってくるんですよ。ね。だから、その気になればです、言うなら誰でも受けられる。うん。
本気でヒマワリのような信心さしてもらおうと。ね。それを例えば、私の信心過程で言うならばどういうことかと言うとです。ね。これは私が、まだ、信者時代も信者時代、まぁだほんとの信心も分からない。言うなら「おかげおかげ」でおかげを求めてばっかりおった時代から、これだけは、私の言うならばこれは、座右の銘とでも申しましょうか、ね。それは「節を元気な心で受けていく人は伸びる」ということであった。節を元気な心で受けていく人は伸びるのだ。だからその節でヘこたれて、伸びるはずがないのである。ね。
それが、だれでも信心をすれば受けられると言う御神徳とは、そこであったということを今私は思う。なら、私が今御神徳を受けたわけじゃないけれども、限りなく、ここんところの例えば節をね、大事にさしてもらうだけではなくて、元気な心でそこを抜け切らして頂く信心を頂きたいと、これはいつも思っておる。ね。
そこを、なら場合によってはです、「泣く泣くでも」ということにもなってくるかもしれません。ね。そこんところをですね、いい加減にする。言わばシダゴダにする。ね。結局おかげが、なるほど受けておるけれども、シダゴダのおかげである。ね。一番大事なところ。御神徳を受けて行く為の一番大事なところをシダゴダにする。他んところ、どんなに一生懸命やっておっても、いよいよの時に、そこをシダゴダにする。ね。まあ情けない話である。おしい、どんなに考えてもおしい。
そこを私は、乗り切らせて頂くことになればです、誰でも、いわゆる「信心すれば」と言うのは、そういう意味だと思う。誰でも受けられると仰っておられる。誰でも見易う。ね。
けれども、私は後々で考えてみてですね、その気になってそこを受け抜いていっておればです、私は案外見易いのではなかろうかと思う。しかもそれは、みてることのないおかげに繋がることの為に。ね。誰がどういうふうに見ても聞いてもです、ほんとに、神の栄光を燦々として受け切っていけれる。受けておるおかげ。信心。ね。
ただね、じぃっとして食べられるといったようなおかげを受けるということが、ね。なるほど、おかげを受けたけれども、そのおかげの味気なさにですね、さあ、今からまたやり直すっつったって、もう難しかです。これはあの世には持ってゆかれん。果たして、これを子供に残して、子供がどういうようなことになるだろうか、と思うただけでも、暗たんとするものを感ずる。
ですから、おかげを受けるなら、そういう信心の根本的なもの、または、神の願いとされるもの。信心してということはです、ね。神徳を受けてということだと思う。ね。「どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ」と仰るのは、「どうぞ信心して神徳を受けてくれよ」ということであると私は思う。
それをどこをどう間違えるのか、どういう気であるのか、ただ、おかげおかげという、「じゃぁこのまま行きゃ、来年にはいくらになるだろう。(?)だけでも食べられる」といったようなですね、おかげに終始して一生を終わったんではね、もうほんとに生きがいがないですよ。ね。
なるほど、これなら先の世までも持っていけれるだろう。なるほど、これならば、子供も孫もです、ね。それを檻の中のライオンじゃないけれどもです、檻の中でじぃっとしておりゃ食べられるという意味のものではなくてです。神の栄光が燦々として、そこに降り注いでおるのだ。ね。御神徳によって頂くおかげとです。ただ、工面でおかげを頂いたというか、努力でおかげを頂いたというものの違いは、そこにあると私は思うです。ね。
神様の栄光に満ち溢れるおかげを下さろうとしておる、そのおかげをです、ただシダゴダで受けていったんでは、ね、相済まん。ね。そこにスッキリした、ね、信心を貫かせてもらい、頂き抜いてから頂くおかげでありたい。ね。
それにはです、私どもがね、泣く泣くというところにもあろうけれども、そこを「辛抱しいしいに」という辛抱をしてゆくうちにです、ね。いわゆる、信心が進む。思うこともなくなり、欲しい物もなくなりというような境地がそこから開けてくる。ね。そこの先には、もう「有り難うて有り難うて」ということになってくる。ね。
その「有り難うて有り難うて」ということが、形の上においても、(言うて?)はですね、例えば、じぃっとして食べられるという意味合いにおいては同じかもしれませんけれども、内容が全然違うでしょうが。「有り難うて有り難うて」という、言わば、内容をもって受け続けていけれる、神様のお恵みである。ね。
まず自分の心の中にです、ね。ほんとに、神様のそうしたそれはおかげは受けておるけれども、それをそうと気付かない。ね。誰が見ても「なるほど信心しござる人」としての人。「なるほど信心をしござる家庭」としての家。ね。隅から隅まで、なるほど御神徳が満ち溢れておる、例えばお広前でなからなければならんと同時に、神徳が満ち溢れておる、お互いの家庭でなからなければならない。
そういうおかげを頂いてこそ始めてです、みてることのないおかげが約束される。また自分としても、みてることがないだろう、と確信することができる。それこそが、あの世にも持ってゆけるのであり、この世にも残しておけるのである。ね。
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない」みてるということがない、そういうところへですね、私は、おかげの魅力というものを置かなきゃいけんと。ね。
そんならば「信心すれば」と、いと簡単に言うておられるその信心とはどういう信心か。それは、神徳を受けさして頂くという信心でなからなければならない。そこにです、ね、この節で挫折するようなことであっては、このくらいな事で泣き言言うておったんでは、ね。神様に笑われるというような、私は、気概というものが、自ずとできてくる。ね。
そこに私はね、なるほど、節を元気で受けていければ伸びれれるおかげが受けられる。ね。その節をですね、いい加減にしない。暑い時は誰だって暑い。ね。そん時に、ジワッとするではなくて、太陽の光の方へ向かって、言わば、難儀に取り組むということを言われますが、難儀にと思うその難儀に、そちらの方へ向かっての信心をです、願われる。私は、御理解第2節はそういうことを願うての御理解であると。神様の願いがそういうふうに願われておるんだ、というふうに思わして頂くんでございます。
どうぞひとつ、元気な心でですね、ね。いよいよ大事なところをですね、シダゴダに、ほとんどの人がしております。いよいよという時にね。ね。そのシダゴダではね、たとえおかげを受けても、そのおかげが、神の栄光が溢れるほどの、満ち溢れるものになってこないのですよ。ね。
その為にひとつ、ね。シダゴダの信心じゃなくて、そういう、今日私が申しましたようなところへ立脚したような信心を頂いて、ね。なるほど、神様のおかげというのは、ああいうのであろうかと。誰でも感じられるほどしのおかげをね、頂き。しかもそれを続けて行けれるおかげを頂きたい。ね。
その為にはお互いがです、ね。本気でただお参りをするということだけでも、その気にならなければお参りができませんでしょう。朝参りでも。ね。ですから、御神徳を受けるということにですね、神様の御信用を頂くということにもです、御信用を頂かなければ、人間の真実の幸せはない、みてるというようなおかげには繋がらないと分からして頂いたら、ね。私どもは、御神徳を受けるという信心をもってです、ね。誰でも受けられると仰るおかげをね、受けてみていけれるおかげを頂きたい。ね。
まあ、繰り返し申しましたが、ね。お互いひとつ、その気になっておかげを頂いて行きたいと思います。どうぞ。
明渡 孝